第23代顕宗天皇

大長谷天皇(雄略天皇)を深く恨み報復する。

顕宗天皇(けんぞうてんのう)は、その父王の市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)を殺した大長谷天皇(おおはつせのすめらみこと:雄略天皇)を深く恨み、その霊に報復したいと思いました。

そこで、天皇がその大長谷天皇の御陵を破壊しよう人を遣わそうとした時、兄の意祁王(おけのみこ)が注意を促しました。

「この御陵を破壊するのに他人を遣わしてはいけません。私が自ら行き、天皇の思い通りに破壊して参りましょう」
「それならば、言葉どおりにしてきなさい」
天皇は、そう命じました。

こういうわけで、兄の意祁王が自ら向い、少しだけ御陵のかたわらを掘り、
「御陵を堀り壊しました」と報告しました。
すると、天皇は、意祁王があまりに早く還って来たことを不思議に思い、
「どのように壊したのか?」と尋ねました。

「大長谷天皇の御陵の傍らの土を少しだけ掘りました」

と、意祁王は答えました。
不思議に思った天皇が言いました。
「父王の仇に報復したいと思うなら、ことごとく御陵を破壊するのに、なぜ少しだけしか掘らなかったんだ」

「父王の仇を報いたいと思うのは当然のことです。しかし、その大長谷天皇は父の怨敵ですが、私たちの父の従兄弟です。また、天下を治めた天皇でもあります。
ここで今、単に父の仇というだけで、天下を治めた天皇の陵をことごとく破壊したならば、後の人々は必ず非難するでしょう。

ただし、父の仇は報復しなければなりません。だから、陵の傍らを少しだけ掘ったのです。既にこの辱めにより、後世に私たちの意志を示すには十分だと考えます」
意祁王はこのように話しました。

「それもまた大いに道理にかなうこと。言葉どおりで良いとしましょう」
天皇は、そう言いました。

そして、顕宗天皇が崩御すると、すぐに兄の意祁王が皇位を受け継ぎました。

顕宗天皇の御年は38歳で、天下を治めること8年。
御陵は片岡の石坏岡(いわつきのおか:奈良県香芝市北今市)の辺りにあります。陵名は傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)です。

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