倭建命(ヤマトタケル)の東征

倭建命(草薙の剣で草を刈り火の手を止めるヤマトタケル。ウィキペディアより)

凱旋したはずの倭建命であったが…

倭建命は九州南部の熊曾健2人だけではなく、出雲健も成敗して帰ってききました。だから、彼は鼻高々でした。父・景行天皇にさぞや褒められると期待していたのです。

ところがどうでしょうか。褒められもせず、帰ってきたばかりだというのに、今度は東征を命じられたのです。

「東方の野蛮な豪族たちが従わないので、平定せよ」

景行天皇は、少ない家来と邪気を払う比比羅木(ひひらぎ)の八尋矛(やひろのほこ)を与えただけでした。

さすがにショックを隠せない倭建命は伊勢神宮にお参りし、叔母の倭比売命(ヤマトヒメミコト)を訪ねました。
「父は私が死ねばいいと考えられておられるのでしょうか。まだ、西征から帰ってきたばかりだというのに、今度は東征を命じられました」

倭比売命は、倭建命が泣きながら出発する時、草薙剣を与えこう付け加えました。
「もしも困った時は、この袋を開けない」

相武国の造のワナ

倭建命は尾張国に入った時、造(みやつこ)の祖の美夜受比売(ミヤズヒメ)と結婚の約束をし、豪族を説得しながら東に向かいました。

「この野原の中にある大沼の神は、霊力のある神です」
倭建命が相武国(さがむのくに – 相模国)にまでくると、そこの造がこう申し上げました。
倭建命は、その神に会いに野に入りました。すると、国造は火を放ったのです。

倭建命はワナだと気付き、叔母の倭比売命にもらった袋を開けると中には火打ち石が入っていました。倭建命は草を斬り払い火をつけ、自分の周りに日が来ないようにしてからそこを脱し、国造たちを斬り殺しました。

弟橘比売命の犠牲

さらに、東へ向かった倭建命は走水海(はしりみずのうみ – 浦賀水道・東京湾の入り口)で、海峡の神が起こした風浪のため、船が渡ることができません。

すると、妃の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が申し出ました。
「私が海に入り神を鎮めましょう、御子には天皇の使命がありますから」
そう言うと弟橘比売命は菅を編んだ敷物、毛皮の敷物、絹の敷物を波の上に敷きました。その後、海に入って行きました。海は静まりましたが、7日後、弟橘比売命の櫛が浜辺に打ち上げられました。倭建命はここに彼女の墓を作り、櫛を墓に納めました。

こうして、倭建命は東京湾を渡り、房総半島へ入り、いわゆる東の国の豪族たちを平定していくことができたのです。

「東国」という地の謂れ

大和に帰る途中、神奈川県の足柄山の坂道で白い鹿の豪族を退治した時、「我妻(あずま)はや – 我が妻よ」と言いました。だから、その国を「東」というのです。

その後、倭建命は甲斐の国(山梨県)を回り、酒折宮(さかおりのみや)に着き、こう詠まれました。

新治(にひばり – 茨城の新治村) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

かがなべて(日に日を並べて) 夜には九夜 日には十日を

こう、かがり火を焚いていた老人が歌の続きを詠みました。倭建命はその歌を褒めて、東国造に任命しました。

このようにして、倭建命は東国の豪族たちを平定して、尾張国に戻ってきました。先の約束通り、美夜受比売との結婚を済ませました。

伊吹山の神の怒りにあう倭建命

倭建命は結婚の後、伊吹山(滋賀県と岐阜県の境)の豪族を倒しに出かけました。この時、倭建命は草薙剣を美夜受比売(ミヤズヒメ)の元において出かけたのです。草薙剣を持って行かなかったことが、災いになったのかもしれません。

「伊吹山の神とは、剣ではなく素手で戦おう」
倭建命は山を登っていくと、牛ほどもある大きな白い猪に出会いました。
「この白い猪は神の使いであろう。今は殺さなくても帰る時に殺そう」
と、元来タブーとされていた、自分の意思を言葉にしてしまいました。また、神そのものを「神の使い」と勘違いし、神が怒りを露わにしたのかもしれません。
にわかに空は曇り、大きな雹が降ってきました。その雹が倭建命にあたり、彼を気絶させてしまったのです。

「私の心は常に空を翔けていきたいと願っているのだが…」
下山して意識は回復しましたが、倭建命の足はむくれ、歩くことさえままならなくなってしまったのです。

倭建命の死

倭建命は三重の村に着いた時、こう言いました。
「私の足は三重の勾餅(まがもち)のように腫れて曲がってしまった。とても疲れた」
そこで、その地を三重というのです。

愛しけやし 我家の方よ 雲居起ち来も
(懐かしいな〜、我が家の方から雲が湧いてくることよ)

この歌を詠むと、倭建命は危篤に陥り、

嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや
(美夜受比売の床の傍に置いてきた太刀と、草薙剣よ)

この歌を詠むと、倭建命は絶命しました。

倭建命の葬儀

大和にいる天皇の妃や御子たちは、倭建命の死の報せに集まってきて御陵を作りました。
すると、倭建命の魂は白い千鳥になって飛んで行きました。妃や御子たちは、どこまでも千鳥を追いかけてました。

千鳥は河内国の志幾(大阪府柏原市周辺)まで飛んで留まりました。そこで、その地に御陵を立てたので、その名を白鳥御陵(しらとりのみはか)と言います。

しかし、倭建命の魂である千鳥は、さらに天を翔けて行ったのです。

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