第19代允恭天皇 氏姓を定める。

第19代允恭天皇

反正天皇の弟、第19代允恭天皇になる。

反正天皇の弟浅津間若子宿禰命(おあさつまわくごのぬくねのみこと)は、遠飛鳥宮(とおつあすかのみや:奈良県明日香村飛鳥)で天下を治め、第十九代、允恭天皇(いんぎょうてんのう)となりました。

「私には一つの長い病があり、皇位を受け継ぐことはできない」
と、允恭天皇は、はじめ天皇の位を辞退しました。
しかし、大后をはじめ官人たちが強く願い申したため、皇位に就くことになりました。

この時、新羅の国王が、八十一隻の船で貢物を献上しました。この貢物の大使が金波鎮漢紀武(こむはちにかにきむ)とい、薬の処方よく知っていたため、天皇の病を治療したのです。

允恭天皇、氏姓を定める。

天皇は天下のあらゆる人々の氏姓(うじかばね)が誤っていることを憂い、味白檮(あまかし:奈良県明日香村豊浦の甘樫丘)の言八十禍津日前(ことやそまがつひのさき)で盟神探湯(くがたち)という占いをおこなって、誤りを正し、天下の多くの職業集団の長の氏姓を定めました。

「氏」とは世襲によって継がれる家名のこと、「姓」とは朝廷から賜る家の階級のこと。盟神探湯とは、探湯瓮(くかべ)という釜に湯をたぎらせて、そに手を入れ、火傷するかしないかにより、手を入れた人の邪心を判断する占いのことです。天下の多くの臣民の氏姓を正しく定めました。

また、木梨之軽太子(きなしのかるのひつぎのみこ)の御名代(みなしろ)として軽部を定め、大后の御名代として刑部(おさかべ)を定めました。さらに、大后の妹の田井之中比売(たいのなかつひめ)の御名代として河部(かわべ)を定めました。

この天皇の御年は78歳。甲午年(きのえのうまのとし:西暦454年)正月15日に崩御されました。
御陵は河内(かわち)の恵賀長枝(えがのながえ:大阪府藤井寺市国府)にあります。
陵名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)、市ノ山古墳(いちのやまこふん)

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